「Jesus(ジーザス)」と、「イエス・キリスト」は、違う…..という話.
僕は、ここ、20年近く、アメリカに住んでいる。いわゆる、キリスト教文化圏に、住んでいる訳だ。もちろん、キリスト教文化圏だからといって、誰もが、キリスト教徒であるはずもない。それは、日本が、仏教文化圏だからといって、誰もが仏教徒でなどは、全然ないのと、同じだ。そうではあっても、やはり、仏教文化圏に住んでいる我々には、ブッダ、あるいは、「仏(様)」、「釈迦(シャカ)」に対して、親しみがある。その親しみは、間違いなく、キリスト教文化圏に住んでいる人々には、ないものだ。で、逆も又、真なり….で、キリスト教文化圏に住んでいる人々には、日本に住んでいるだけではわからない、キリストに対する、親しみがある。その、親しみが、日本で言うところの、「イエス(様)」、あるいは、「イエス・キリスト」という名称・呼称では、どうも、うまく、伝わらない、伝わっていない。そう、感じる。仏教にとっての、ブッダ、あるいは、仏(様)、釈迦(シャカ)
の存在に等しい、キリスト教の創始者である、彼の名前は、やっぱり、Jesus(ジーザス)なのだ。この事は、うまく伝わるかどうか、わからないが、Do you believe in Jesus (ジーザスを信じるか)?と訊かれたら、「Yes」と答えてもいい様な気がするが、「イエス・キリストを、信じますか?」「イエス様を信じますか?」と訊かれると、字義の上では、同じ質問であるはずなのだが、「よくわかりません」とでも、答えるしかないかな….. という気持ちに、なってしまう。字義の上では同じでも、イエス・キリスト(=「イエス様」)と、Jesus(ジーザス)は、印象としては、全く、違う。別人である位に、完全に、違う。そもそも、日本には、「神と、一対一」「神と、対等にしゃべる」という感覚が、ない。日本にあるのは、あくまでも、「我々の」神(=至高者)であって、「私の」神ではないし、さらに、それは、目上の存在・神「様」であって、気安く、「オレの話を聴いてくれヨ !」と、お友達扱いで、しゃべりかけてもいい、「神」では、ない。ところが、「イエス・キリスト(=イエス様)」ではない、「Jesus(ジーザス)」は、その、「お友達」神であり、「気安く」呼びかけ、「気楽に」しゃべりかけてもいい、神なのだ。その、気安さ、気楽さ、身近感がわかれば、( それで信じるか、それでも信じないかは別にしても、)キリスト教の創始者である、彼、「Jesus (ジーザス)についての感覚は、確実に、変わるだろう。
ホラ、日本人であれば、寺に行ったり、神社を訪れたりした時に、何か、ホッとする様な感覚、いい感じが、あるではないか。あの、「ホッとする感覚」、「いい感じ」が、キリスト教文化圏においての、Jesus(ジーザス)なのだ。
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