ひとり教・自分教
イエス・キリストが好きだ。宗教とは関係なしに、純個人的に、好きだ。ブッダも、好きだ。宗教とも、寺とも関係なしに、自分ひとりで、好きだ。世の中で言う、信じる・信じないというのが、よくわからない。信じる・信じないというのが、あるとすれば、それは、僕自身の、純個人的な事で、完全に、僕自身だけの、プライヴェートな事であり、ゆえに、人には、関係のない事だと思う。僕自身の、信じる・信じないを、世の中が取り沙汰して、信じているなら、ああだろう、こうだろう….信じているなら、ああしろ、こうしろ….僕にとっては、ものすごく、不純な事だ。僕は、個人的な、心の聖域みたいなものを、極めて、大事にしている。それに、勝手な意味づけを、されたくない。そこにある意味は、僕自身だけが、よく知っている。人にはわからないし、人には関係ない。人に意味づけされる必要なんか、これっぽっちもない。僕が宗教者を名乗るとしたら、ひとり教、自分教だ。信者は、永遠に、僕ひとり。集団性、全くなし。社会性もない。社会的な性質が、そもそも、ないからだ。イエス・キリストにも、ブッダにも、個人的に、感動する。純個人的に、感銘を受ける。神も、仏(ブッダ)も、純個人レベルで、いい。純個人レベルでこそ、意味があると思う。純個人的な性質、純個人的なレベルのものがあれば、同じく、純個人的な、他の人々と、心で、つながる。一体感、連帯感を得る為に、群れる必要なんか、全然、ない。
でも、その一方で、集団的・組織的に、信心なり、信仰なりをしている人々を、否定したりは、全然、しない。ただ、神がいるのなら、教会だけにいる訳ではないし、仏(ブッダ)だって、寺にだけ、いる訳ではない。言い方を変えれば、神、イエス・キリスト、あるいは、仏(ブッダ)の存在を土台にして、宗教がある訳で、その逆では、ないのだ。神は、宗教を超えている。イエス・キリストは、キリスト教を超えていて、仏(ブッダ)は、仏教を超えている。この事を、忘れちゃいけない。例えば、セイブン教( 笑!)というのが、世の中に、あったとする。で、セイブン教の信者達が、その組織をつくって、法人化し、その寺院だか、教会だかも建てて、その教義・信条も、全部決めた上で、集まって、セイブン教の教えについて、論じているとする。そこに、突然、セイブン教の核心であり、土台のすべてであるに違いない、この僕が現れて、「ボク、そんなんじゃ、全然ないヨ!」と、ひと言、言ったとしたら?それに対して、セイブン教の信者達が、いっせいに、「黙んなさい!教義は、私達が決める!」と、答えたとしたら?変でしょ、これ?
イエス・キリストも、ブッダも、修行をして、荒野を、森を、さまよったという。その、ひとりっきりでいるイエス・キリスト、ひとりっきりでいるブッダのところに、心の世界で、ひとりっきりで行って、イエスと、あるいは、ブッダと、ふたりっきりになって、語り合う…..そうすれば、いわゆる「キリスト教」ではない、イエス・キリスト個人の教える事、又は、いわゆる「仏教」ではない、ブッダ個人の教える事が、わかるだろう。ひとりで、原典を読めば、それが、出来る。バイブルを、仏典を、ひとりで、個人の心で読めば、ひとりで、個人の心を以って、イエス・キリストに、ブッダに、会う事が出来る。
世界に、星の数ほどの、無数の宗教があり、星の数ほどの、無数の原典がある中から、キリスト教、そして、バイブルを例にすると、バイブルに書いてあるのは、こういう事だヨ!と、ある人々が合意して、カソリックが出来た。それに対して、イヤ、そうじゃない、バイブルに書いてあるのは、本当は、こうで、こうで、こういう事なんだ!と、ある人々が合意に至って、プロテスタントが出来た。同じ様にして、あの流派、この流派、その流派が出来、中には、キリスト教の流派ではなくて、集団で、単独宗教を、丸ごとつくった人々も、たくさんいる。
それが、悪いという事は、ない。でも、それは、社会的な操作だ。繰り返して、強調するが、社会的な操作が、悪い事だ….という事実は、ない。個人的にも、そんな事は、全然、思っていない。でも….それは、やはり、社会的な操作なのであって、個人レベルの事ではない。言いたいのは、これ。
イエス・キリストであれ、ブッダであれ、イスラムであれ、ヒンドゥーであれ、精神的な興味を持って、そういうテーマを、学びたいのであれば、宗教や、哲学が、そのテーマで教えている事を、参考にした上で、でも、それは、あくまでも、参考にとどめた上で、ひとり、自分の部屋で、原典を読んで、そこに書いてある事を、自分自身で、読み取るのが、ベストなアプローチだと思う。
僕自身は、バイブルも、ブッダの言葉も、好きだし、ヒンドゥー教の原典のひとつとされている、「ウパニシャッド」も、好きだ。その、どれも、純個人的に愛読しているし、純個人的に、多くを学び、深くを学んでいる。それで、純個人的に楽しいし、純個人的に、為になっていて、純個人的な形で、心の土台になっている。
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