
喜んで生きるヒント –
ワクを外して考え、やって見る.
例えば、ここに、ピアノが、一台あるとする。ピアノを弾くには、何が必要か。答え。何にも、必要ない。理由。キーを叩けば、誰にでも、音は、出せるから。だから、ピアノが弾きたいのならば、今すぐ、弾けばいい。それで、楽しかったら、もっと、やればいい。ピアノの弾き方は、それだけだ。なんにも、難しい事はない。
ピアノを弾くには、楽譜が読めなくちゃ。弾ける人に、習わなくちゃ。小さい頃からの、音楽の才能がなくちゃ….そういうワクで、心が、がんじがらめになっていると、出来るものも、出来なくなってしまう。上手に弾けなくちゃいけないとか、正式な弾き方に従わなくちゃいけない、なんていうのも、全部、同じで、自分で、自分の心に、ワクをはめているだけ。
そういうワクを、一切、外して、何でもいいから、出来る事をやろう、やれる事をやって、楽しもう….そんな気持ちで、時間と、機会がある時に、ピアノの鍵盤を、叩き続けた。何年もかかって、だんだん、「それっぽく」なって来て、ついには、コード(和音)の弾き方も、感覚的につかんで、ピアノで伴奏しながら、歌える様になった。そして、今では、プロとしてではないにせよ、人前で、ピアノを弾けるまでになった。実際、去年までは、ある場所で、定期的に、独演のピアノ・ライヴを演っていた位だ。これは、正真正銘の、本当の話だ。今でも、本来的な、「ピアノの弾き方」は、全く知らない。でも、今さら、ピアノの弾き方なんか、知りません、などと言っても、僕を知っている人は、そんな事、誰も信じない。
こうでなければいけない、こんなじゃあダメだ、こうでしかない、自分にはどうにもならない…..そんな決めつけで、心がグルグル巻きに束縛されて、精神的に、がんじがらめになって、何も考えられなくなり、その結果、何も出来なくなってしまうのは、悲劇だ。それで、挙げ句の果てには、生きる事自体、出来なくなってしまう人だって、無数にいる。世界中にいる、自殺してしまう人の多く、ほとんどが、浅はか過ぎる、そして、性急過ぎる、「ダメだ」の決めつけで、死んでしまうのだ。その人が、死んでしまってから、すぐに、その人を死に追いやった問題が、あっさりと、解決してしまう事だって、いくらでもある。残された遺族や、知人友人達は、その解決を喜ぼうにも、もはや、喜べず、その人を失った、心の傷の痛みを、ますます、深めるのみだ。
否定的な思いというのは、悪い事に、その思いを、問題意識として、抱き続けていれば、いるほどに、いかにも、本当らしく、いかにも、決定的に、重要で、重大で、逃れられない、深刻なものであるかの様に、感じられて来る。
僕は、成り行きで、ここ数十年、サンディエゴに住んでいるのだけれど、まだ、日本にいた頃に、ある友人が、失職した時の事を、覚えている。まるで、それが、人間失格の宣告ででも、あったかの様に、焦り狂いまくって、必死で、新しい職を探し求める、その友人の姿が、自分には、不思議で不思議で、仕方がなかった。金銭的な問題があって、収入が途絶えでもしたら、大変な事になる….という事情があった訳でもなく、ただ、人の眼を気にする余り、無職の状態は、社会的に、体裁が悪い….という心のワクに、彼が、縛られていたというだけの事だったから。そんな心のワクがない自分には、その友人が、一体何を、そんなに焦り狂っているのか、さっぱり、訳がわからなかったのだ。
社会的な体裁とか、世の中の常識的な感覚、などというものは、ちゃんと、理を通して、考えて見れば、そんなに、重要なものでもなければ、それに盲目的に従わないというだけで、社会人として、致命的な結果になる様なものでもない。むしろ、理筋を通した上で、独自の考えで判断し、他に流されずに、自らの選択をする人の方が、人目にも好ましく、敬意を持たれるのではないかと思う。

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