不思議な満ち足りと、落ち着きを感じている。それはまるで、映画の主人公の心の生活を、その主人公とひとつの気持ちになって、スクリーン上で、音声と共に観ていながら、自身は観客であって、その主人公ではないと知っている様な状態。その主体が、誰でもない、意識そのものである状態。
生の全体を、一度に全部、感じている状態。感じる事が出来ている状態。この時、空間は、生、という、ひとつ。時間は、今、だけ。
そして、時間も、空間も、意識、という、たったひとつのもの。
通常は、この、映画の主人公と、完全に、同一化、一体化していて、映画館で、客席に座っていて、その主人公の映画を観ている事には、気づいていない。
この意識状態を、ぼんやりと、意味もわからず、おぼろげに体験する事はあっても、はっきりと、意識的に体験する事は、稀だろう。
「映画の主人公が、死んだり、殺されたりしても、その映画を観ている観客である、意識の主体は、死にもせず、殺されもしない」という事が、この意識状態にある時には、事実として、わかる。
この意識状態は、ごく、自然に、満ちていて、ナチュラルに、ポジティヴだ。すべての事実を、事実そのものとして見る眼だけがあって、そこには、ネガティヴな思いが、ナチュラルに、何もない。
映画の主人公のネガティヴな思いを感じ、知る事はあっても、そのネガティヴな思いは、意識の主体のものではない。そのネガティヴな思いは、意識の主体に属しているのでもなければ、意識の主体から生まれているのでもない。
ネガティヴな思いというのは、常に、個人的なものだ。だが、この意識状態には、映画の主人公の個人的な思いはあっても、その観客である意識の主体には、個人的なものは、何もない。だから、存在するネガティヴな思いを、抑えるのではなく、排除するでもなく、ポジティヴな思いに切り替えるでもなく、ごく自然に、はじめから、ネガティヴな思いが、そもそも、存在していない訳なのだ。
「状態そのものが問題である」という状態は、存在しないし、存在していないし、過去に存在した事もなく、これからも存在せず、そもそも、存在し得ない。何故ならば、問題とは、ある、事実的な状態を、ひとりの個人か、複数の個人達それぞれが、「問題である」と見、思っているという事であって、それ以上でも、それ以下でもないのだから。ある状態を問題と見、思う個人が存在しない問題、誰の主観も介在しない、非個人的な問題というのは、ないのだ。
この、「それが一体、どうしたというのだ」などと、言われかねない、一見、単に観念的である思考を深めてゆくと、現実の生活の中の、具体的な問題が、解決する。
ある状態を、問題として見、思っている時には、事実的な、その状態は見ていず、ただ、「こうあるべきだ」という、求める状態を思い描きつつ、事実には、そうはなっていない事に、ネガティヴな感情を注ぎ込み、無為に、費やしているだけなのだ。もしも、この同じ状態を、状態そのままの事実として見る事が出来たなら、大抵の場合、その解決方法もわかる。
ここには、もうひとつ、隠された秘密がある。そして、これが、その秘密だ。「ある状態を、ただ、問題視している時には、その状態の存在を責めているだけで、その問題を解決しようとも、その状態を変えようともしてはいない」。
これは、なかなか、わかりにくくて、気がつきにくいが、事実だ。
戯画的に描写すれば、ある状態を目の前にして、「そんなじゃあ、ダメじゃないか!」と、繰り返し、叱りつけるだけで、自身は何もせず、それで、その状態が、自ら変わり、問題が解決するのを、期待して待っている様なものだ。
でも、もちろん、そんな事は、まず、起こらないし、自身でも、その事を知っている。だから、失望し、絶望し、苦悩して、フラストレーションと、「どうにもならない」という無力感、そこからの、屈辱的・敗北的な無気力感だけが、どんどん、つのってゆく。これは、よほど、解決が困難か、解決不可能な問題だ、自分の手になど負えない、到底、ダメだ…と。
この、救いがたい問題….ではなくて、救いがたい精神態度に気づいて、その、心のワクを外して、その状態の事実を、事実のまま見る事が出来れば、問題は解決する。
こうして、論を展開するだけではなくて、僕は、自分自身の生活の中に、現実にある、具体的な問題の解決を念頭に置いて、この文章を、ずっと、綴って来ている。それが、論の通りに、解決したら、可能な範囲内で、お知らせする。
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