僕は、もう、16年も、カリフォルニア(サンディエゴ)に住んでいるけれども、それ以前には、コロラドに住んでいた。コロラドの、デュランゴという町、そして、コルテズという町、そして、さらには、そのふたつの町と町の間の、小さな村で、暮らしていた。ロッキー山脈に、360度、囲まれた暮らしは、今でも、忘れられない。
こうして、回想しながら、書いているだけでも、ため息が出る。
初めてのアメリカ旅行は、2週間足らずの、短いものだったが、思いがけないなりゆきによって、僕にとっては、所縁(ゆかり)ある地になったのが、その地域だった。
初めてのアメリカ旅行から帰国して、1年ほど経ってから、僕は、仕事を辞め、その退職金と、それまでの貯金を使って、その地域に、繰り返し、繰り返し、訪れ、旅行者として、許可されている、3ヶ月間、目いっぱい、その地域で、過ごした。そんな事を、3度、繰り返したが、その度に、新しい思い出と新しい友達を山ほどつくって、名残り惜しさでいっぱいになって、帰ったものだった。
本当に、本当に、本当に、楽しい日々だった。幸いに、ある程度のまとまった額の貯金があって、贅沢・無駄づかいさえしなければ、当分、お金の心配は、なかった。
その地域は、コロラドの田舎で、山岳地帯でもあり、大自然の恵みで、いっぱいに満ちていた。朝は、窓の外すぐに生えている木にとまっている、うるさいほどの、無数の鳥の鳴き声で、目覚める。定宿にしていた、その、Old Mancos Innという宿屋を出て、朝の新鮮な空気に喜びを感じながら散歩する、その、気持ちよさ。
確か、その村には、宿屋は数軒しかなかったと記憶しているが、雑貨屋は、ひとつしかなく、郵便局や薬局、本屋などは、なかった。
その村、Mancosと、その村をはさんだ、ふたつの町、DurangoとCortezで、僕は、その時その時、宿を移しながら、暮らしていた。3つの町・村の、どれにも、そこならではの、思い出がある。
ギターを持ち歩いて、場所を選ばずに、よく、歌った。老人ホームや、教会、学校、地域の集まりなど、その機会があれば、どこにでも、出かけていって、歌った。何もなくても、公園とかで、よく、歌っていて、それを聴いてくれる人達が、自然に、周囲にいた。
ギターを弾いて歌う。と同時に、
建物の中で、ピアノやオルガンがある時には、それを弾いて、歌った。提供されたベース・ギターを弾いて、バンドと一緒に、演った時もある。その間(かん)、ハーモニカは、ハーモニカ・ホルダーにはめて、首から下げて、曲の間奏(ソロ)の部分を、吹いていた。この、ハーモニカについての、僕の描写がわからない人には、「ボブ・ディランがやっている、あれだヨ!」とでも、言って置こう。
https://m.youtube.com/watch?v=vWwgrjjIMXA&pp=ygUTQm9iIGR5bGFuIGhhcm1vbmljYQ%3D%3D
山岳地帯独特の、大自然の恵みに囲まれた環境の中で、日々が、音楽に満ちていた。音楽を中心にして、人々が集まり、一緒に盛り上がる空気が、文化的に、あった。
楽しかった。楽しかった。楽しかった。本当に、楽しかった。今、思い出しても、ため息が出る位、楽しさに満ちた日々だった。
何しろ、田舎の事でもあり、都会よりも、人々は、オープン・マインドで、今、たまたま、路上で会ったばかりの人に、「俺、恋人と別れたばっかりで、今、ツラいんだヨ」などと聞かされそうな、そんな、人間同士の一体感の空気が、どこにでも、あふれていた。
(ただし、友人知人達の中には、「そりゃあ、お前だからだヨ。アメリカだからって、誰でも、そんな調子で行ける訳じゃあないゼ」と僕に言う人もいる。それも、まあ、そうなのかも知れない。)
話は、先述の、その村に戻る。
その村で、楽しい日々を送りながら、いく晩もの、夜を過ごした。
この、夜というのが、又、格別で、ロッキー山脈に囲まれた、小さな村で、大空いっぱいに満ちあふれた星を見上げていると、それまでの、日本での生活が、本当にあった事なのか、不思議に思われる位に、どこかの、夢の世界、次元の違う世界に、引きこまれた。
僕達、日本人は、ほとんど全員、日本に生まれて、日本に育って、日本人である自身にとっては、日本での日常生活がすべてで、それ以外、という事は、そもそも、人ごととしてしか、考えないのが、無意識の習慣になっている。
でも、その、「それ以外」の世界、はるか、日本の外、海の向こうの、どこかの国の日常生活に、たったひとりで、ポーンと放り込まれたら、あるいは、僕みたいな心の体験をするかも知れない……。
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