理性中心で、考える.
理性中心で、考える事。それを、心がけている。そうしていると、アア、感情に流されるだけで、考えていたら、こう決めて、その結果、こうなっていただろうな….という事が、はっきりと、わかる。そんな事をしていたら、うまくいくものも、うまくいかなくなっていただろうな….と、わかるのだ。
感情は、大事だ。もちろん、大事だ。無視などしては、いけない。十分に、尊重しなければ、いけない。けれども、感情の起こるがままに、盲従しても、いけない。自分自身の主体は、理性でなくてはいけない。そして、理性である自分が、自分自身の感情と、話し合う様な形で、物事を考えてゆく。
例えば、簡単に思い出せる実例としては、住所や、電話番号の扱い方が、挙げられる。昔は、住所でも、電話番号でも、もう、要らない…..と感じたら、即、(紙に書いたものは)捨てたり、(電子メモならば)消去したりしていた。イヤな奴の住所、電話番号などは、感情任せに、破って捨てたり、その相手を忘れたい一心で、さっさと消したりしていた。それで、後になって、その情報が必要になった時、もう、手元には、それがなくて、困ったりしていた。今は、住所・電話番号も含めて、情報は、のちに、必要になる可能性があるものは、すべて、考慮の上で、保存して置く。これが、感情中心で考えて、感情のままに動いていたのを、理性中心で考えて、動く様に変えた、ひとつの実例だ。
何事も、感情任せに考えて、感情のままに動く方が、理性で考え、理性で動くよりも、当然、ドラマティックで、その時その時は、楽しいんじゃないか….と思うが、ただ、それは、実際的ではない。
考える….という、生きるすべての土台になる活動が、理性中心であるか、それとも、感情中心・感情任せであるか。この違いは、生きるすべてに、大きな違いをつくり出す。考える内容が、その結果として、何をするか・しないかを決め、さらに、する事・しない事の両方が、その結果として、現実の生の内容すべてを決めるからだ。
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