生きるゆえ・生きているゆえの痛み。そして、生きるゆえ・生きているゆえの喜び。全くの逆で、互いに相反し、対立する、両極端のふたつが、生という、ひとつのものの中にあって、ひとつのものであるという事。それは、生きるゆえ・生きているゆえの痛みを、事実、あるものとして、個人の感覚で、直接に、受け入れた時に、はっきりと、わかる。その時には、それまでずっと、悪以外の何物でもなかった、痛みというものの意味が、完全に、変わる。そして、痛みの側と、喜びの側の、ふたつの側に分断されていた心が、ひとつになり、ひとつに戻る。生きるゆえ・生きているゆえの痛みに、その、ひとつひとつの具体的な体験に、ただただ、怒り、悲しみ、不快に感じ、「避けたい」と「避けられない」の間で、葛藤している限り、生は、直接には、体験されてはいない。ただ、想像上の、痛みの生と、喜びの生という、ふたつのものを通して、ぼんやりと、間接的に感じているに過ぎない。
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