自分という人間が、素晴らしいのは、物事の価値基準を、自分自身で決めて、生きている、少なくとも、そうやって、生きようとしている、という事だ。それは、主観的に、自分自身の事だからというので、自画自賛をして、俺様は、スゴいんだぜ….と、悦に入っているのではなくて、客観的に見て、本当に、素晴らしい事だと、実感する。素晴らしくない事も、自分には、あるとしても、物事の、価値基準、その判断を、人任せ、世の中任せにしないで、ちゃんと、自分自身で考え、納得した上で、自分で決めて、生きている、生きようとしている事は、素晴らしいと思う。もっとも、裏を返せば、自分、という人間は、その様にしか、生きられない訳で、だから、言わば、選択の余地もなく、単純に、ただ、そう生きる事を余儀なくされて、そう生きているだけなので、その意味では、その様に生きる事が出来ないから、その様には生きていない….というのと、何も、変わらないのだが、例え、そういう事情が、自分には、あるとしても、自身が生きる為の、物事の価値基準を、安易に、世の中の支配的な思いや、マスメディアで言われている事、あるいは、特定の、他の誰かに求めず、自分自身で考えて、納得した上で、独自に決めて、その、自分自身の判断に従って、生きるというのは、やはり、素晴らしい事だと思う。以前には、それが、素晴らしい事であるとは、全く、思えなかった。自身で、考え、自身で、決めて、その、自らの判断の通りに生きるというのは、ある面、とても、大変な事で、その様にしか、生きられない事を、重荷に感じ、その、余りの重圧感に、到底、耐えられない気持ちで、何とか、やっと、生きていた日々も、多々、あるのだが、今になって見れば、それは、やはり、かけがえのない、素晴らしい事であり、かつての自分にはわからなかったのだけれども、これまでも、やはり、ずっと、素晴らしい事であったのだと、思う。
ただし、そんな自分だからこそ、人以上に、独断・独善におちいる危険性も高く、大きい訳で、その点は、人以上に、注意している。
周囲の誰もが、当たり前に知っている、れっきとした、事実を、自分ひとりだけが、知らない、自分ひとりだけが、わかっていない、そして、その、完全な、無知ゆえに、その、欠落を、気にかけさえもせずに、生きている….という事が、往々にして、ある様だから。
そういう場合を除けば、ただ、何の差し支えもない範囲内で、世の中の、圧倒的な大多数から、ズレている….というだけなら、別に、構わないし、問題ないと、思う。
世の中の、圧倒的な大多数が、赤い帽子をかぶっているからといって、自分も、赤い帽子をかぶらなければいけない理由など、ない。
イヤー、でも、そうは言っても、それじゃあ、他へのメンツが立たない…とか、何とか、自身でも、意味がわからない事を考えて、結局、赤い帽子をかぶってしまうのが、個人的な価値基準のない人。
自分だったら、「これだけ、多くの人達が、赤い帽子をかぶっているのであれば、自分としては、異なる色の帽子をかぶる事で、自分自身という存在の意味を、まっとうしよう」と、考える。他と、同じにやっているだけならば、この自分がいる意味など、ないではないか….という論が、自分には、確固として、一貫して、あるのだ。
ちなみに、この世界の中で、自分が愛する人々、尊敬する人々、魅力を感じる人々、素晴らしいと思える人々も、みな、独自の価値基準を持っていて、その、内からの輝きを持って、その生を、生きている人々、そして、内からの輝きで、生を、生き抜いた人々だ。
すべての生き物が、太陽の光の輝きから、エネルギーを得て、生きる様に、自分も、その人々、ひとりひとりの輝きから、エネルギーを得、その輝きを、反射する事によって、自分自身、輝いて、生きて来たし、これからも、その様にして、生きていくつもりでいる。
ハリウッドの、映画俳優・女優の様な、マスメディアによってつくられた、スポットライトの輝き、人工の輝きではなくて、個人の、精神の深みを光源とする、人間存在からの輝きを生き抜いた、無冠の帝王….自分も、彼の様な、個人の内からの輝きをこそ、生きていきたい。今、改めて、そう思う。
この文章を、PANTAこと、中村治雄に捧げる。
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