自分自身の素晴らしさを思う。
自分自身の素晴らしさを感じる。
意図して、それを思い、感じる。
人間というのは、とかく、自己否定にばかり、熱心になりがちだ。
それを、あえて、逆転させる。
意図して、自ら、逆転させる。
自分自身が、素晴らしいと思えたら、うれしい。自分自身が、素晴らしいと感じられたら、楽しい。
それだけでも、自分自身を素晴らしいと思い、感じる意味がある。
「素晴らしい」というのは、ものの見方だ。客観的に素晴らしいものと、客観的に素晴らしくないものがあるのではなくて、「素晴らしい」も、「素晴らしくない」も、どちらも、ものの見方なのだ。
その、「素晴らしい」という見方を、自分自身に、適用するのだ。
すでに、書いた通り、自己否定だったら、僕達は、ウンザリするほど、イヤになるほど、死にたくなるほどに、タップリと、する。「死ぬほどに」「死にたくなるほどに」自己否定をして、それで、本当に、死んでしまう人間が、現実に、無数にいる。深刻な問題だ。
その、誰の中にもタップリとある自己否定との、バランスを取る為にも、意図的な自己肯定が、必要だ。そうしないと、自分なんかダメだ、いいところなんかない….という思いだけで、満ちてしまう。言うまでもなく、それは、それこそが、「ダメ」だ。そんなで、いいはずがない、それが健全である訳がない….という事は、誰だって、当たり前に、わかるではないか。
ただし、自分自身を、素晴らしく思おう…..と言っても、「人よりも素晴らしい」と思おう….という事ではない。それは、ただの、傲慢であり、思い上がりであって、健全な自己肯定ではない。これも、誰もが、当たり前に、わかる。
そうではなくて、純粋に、自分自身を見て、素晴らしいと、思える様に、素晴らしいと感じられる様に、自己感覚を、訓練するのだ。
はじめは、抵抗がある。大きな、抵抗がある。自分自身を、素晴らしいと思おうとする、その事自体を、無意識の内にも、頭から、否定しようとする。そんな事をしようとしている、自分自身を、愚劣に感じ、あわれにさえ、みじめにさえ、感じる。あるいは、そうは感じなくても、「事実、何の素晴らしさもない、この、自分自身の事を、素晴らしいなんて、到底、思えない!そんなのは、ウソじゃないか!欺瞞じゃないか!」という様に感じ、無理だと感じる。
だが、それでも、あえて、自分自身の事を、素晴らしいと思おうとする、素晴らしいと感じようとする。その試みを、続けていると、やがて、客観的に、自分自身を素晴らしいと思える、素晴らしいと感じられる、その新しい感覚、新しい自己感覚が、生まれて来る、でき上がって来る。その時、あなたは、ひとりの人間として、それまで通りのあなたでありながら、自分自身の感覚として、完全に、別のあなたになっている。
「素晴らしい」も、「素晴らしくない」も、それ自体は、ひとつの見方、感じ方であって、それ自体には、本当もウソも、ないのだという事を、覚えて置こう。
でも、自分自身を、素晴らしいと思う事・思える事は、実際的だ。
自分自身を、素晴らしいと感じる事・感じられる事は、役に立つ。
生きる上で、大きな力になる。
自己否定、自分なんかダメだと感じる事は、文字通り、その人を殺してしまう。その一方で、自己肯定は、その人を活かし、生かす。
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