自己否定地獄.
自己否定地獄というものを、僕は、経験している。僕は、その苦しみ、むごさを、痛みを以って、味わい、体験した。徹底的な、自己否定感覚。その、徹底した感覚が、慢性化すると、人間というのは、本当に、何も出来なくなる。毎日毎日が、瞬間瞬間が、死ぬほどの、苦悩の連続だった。しかも、それは、いつ終わるともわからず、いや、終わる事なく、果てしなく続く様に感じられ、それで、ただでさえつらく、苦しい、そのつらさ、苦しさが、なおさら、つらく、苦しく感じられた。僕は、まだ、十代、ティーンエイジャーで、何で、自分が、そんな事になっているのかも、よく、わからなかった。それでも、よくわかったのは、このままでは、いけない….という事だった。心が、救いを求めていた。神だろうが、仏だろうが、カウンセリングだろうが、精神療法だろうが、何でも構わない、とにかく、心が楽になりたい、その気持ちで、いっぱいだった。でも、もちろん、インチキなものであれば、救いにもならない訳で、それで、本物の救い….という事を、考え始めたのが、その頃だった。本物の救いを、求める気持ちは、それ以来、今日に至るまで、今でも、続いている。
当時、僕は、まだ、若くて、両親の家で、暮らしていたのだが、どうも、その、環境自体が、僕自身の、執拗な自己否定感覚の土台になっている様でもあった。それで、必死の思いで、適当な仕事をして、働いて、そこそこの資金をつくり、その金で、アパートを借りて、家を出た。今だったら、適当な仕事をして、そこそこの金をつくる事などは、当たり前にやれる。現に、これまでも、必要に応じて、いくらでも、やって来た。だが、その当時の、自己否定地獄のただ中にある僕は、何を考えて、何をするにも、無意味感、無気力感、自己不信感に邪魔されていたので、そんな、自分の心を、騙し騙し、あるいは、「このままでいたんじゃあ、大変だゾ!」と脅し、駆り立てて、働くのは、必死の思いでしか、出来なかった。
結果的には、そうやって、環境を変えたのは、正解だった。でも、本物の救いの探求は、それで終わったのではなくて、逆に、それこそが、探求の始まりだった。
音楽で、気持ちが救われる….という事は、それまでにも、ずっと、体験して来ていた。今は、音楽自体には、恒久的な救いはない….と思っているが、それでも、僕は、音楽に、気持ちを救われ続けている。音楽を聴く事、歌を歌う事、楽器を演奏する事、詞を書き、曲を書く事、そして、踊る事は、どれも、気持ちを、救ってくれる。
宗教的な救いについては、僕は、イエスとノーの、両方だ。その事は、改めて、別の記事で書きたいと思っているが、宗教についての、僕の「イエスとノー」を、ひと言で、同時に言えば、宗教は、それを含む、すべての事と同じ様に、個人の心の反映であり、そこに、何が見出されるかも、個人の心のレベルによる….という事だ。
ドイツの、ロールシャッハという人が考案した、心理テストがある。紙の上に、インクを無造作にこぼしたみたいな模様があって、それが何に見えるかで、個人の心の中にあるものを知る手がかりにする。宗教も、それと同じだ。
だから、万人にとって同じものである、一宗教というのは、ない。端的に言えば、神、という言葉を読んで、あるいは聞いて、心に、何が映っているか、どんなものが映っているかは、万人、違うという事だ。宗教を論ずる大変さと、面白さは、両方、そこにある。
言葉の救い、というのも、もちろん、ある。言葉は、人を、生かしも、殺しもする。殺しも、殺されもしない様に、生かし、生かされる様に、僕は、言葉というものの力を、いつも、意識している。
でも、あの、毎日続く、自己否定地獄の日々、死ぬほどに、つらい、苦しい年月を、経験したからこそ、今の自分の、生が、ある。誰の生にも似ていない、僕自身ならではの、僕自身の生がある。
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