心と、もの(物). 心と、お金.

心と、もの(物). 心と、お金.

ちゃんと、理を通して、考えて見れば、お金も含めて、もの(物)というのは、すべて、心の表現であり、心の内にある思いの表現である事が、はっきりと、わかる。

と、言うのも、お金であれ、他のものであれ、もの(物)それ自体には、意志も、目的性も、何も、ないから。別の言い方をすれば、もの(物)それ自体には、意味がなくて、人間が、それに与える意味が、そのまま、その、特定のもの(物)の意味になる…という事だ。

これだけでは、一体、何の事なのか、読んでも、さっぱりわからない。だから、読み続けるのは、やめよう….などと、思われる前に、具体的な例で、わかりやすく、説明する。ここに、誰の所有でもない、一万円札が、あるとする。その、一万円札が、どこかの道か、野原だかに、落ちている。このお金には、目的が、ない。お金それ自体が、それを使う人間を探し、見つけたら、「これで、レストランに行って、食事をしろ」とか、「銀行に行って、このお金を貯金して、老後の生活の足しにしろ」などと、言ったりはしないから。

この一万円札は、実のところ、お金でさえもない。それどころか、厳密な意味では、紙切れでさえもない。お金、とか、紙切れ、とかいうのは、人間が、ものを見て、それを識別する時の名前であって、何であるとも、識別されないものは、要するに、「何(なに)でもない」としか、言い様がない。

意志もない、目的もない、名前さえもない、この「何でもない」一万円札を、たまたま、その一万円札が落ちている、道だか、野原だかを歩いていた人が、見つける。

その人が、まだ遠いところから、その一万円札を見て、「アア、何かの紙切れが落ちているな」というレベルで識別すると、その「何でもない」は、紙切れになる。その紙切れは、それほど、有用なものではないだろうが、とにかく、一片の紙切れにふさわしい扱い方をされる用意が、そこで出来る。

この、同じ人が、さらに、歩いていって、それが、一万円札である事を、発見する。「オオ!これは、一万円札じゃアないか!」。 「何でもない」から、紙切れになった一万円札は、そこで、初めて、晴れて、お金になる。そして、お金として扱われる用意が出来る。

ここまでのストーリーで、この一万円札の扱われ方は、完全に、それを見つけた人の心次第だった。

もし、それを見つけた人が、それが一万円札である事がわからず、「何だ、誰かが丸めて捨てた紙切れか」とだけ思って、さっさと通り過ぎてしまっていたら、それは、ほんの一瞬だけ、紙切れになったのみで、又、元の「何でもない」に戻っていただろう。

さて、一万円札を拾って、それをポケットに入れて、喜んで歩いてゆく彼は、その一万円札を、何に使うのか。言うまでもなく、それは、彼の自由だ。今、お金に困っている、かわいそうな知人がいるから、その人にあげよう….と思い、そうするかも知れないし、あるいは、その足で、酒場に行って、ビールを一本飲み、そして又一本飲み、おつまみに、枝豆を頼み、鶏の唐揚げも頼み、揚げ出し豆腐も頼んでから、偶然、隣りのテーブルで飲んでいた、高校時代の友達に気づいて、おごってやったりしている内に、一万円札は、そのお店の、「本日の売り上げ金」の一部になるかも知れない。

要するに、お金とは、それを手にする人間の、心の内にある思いの延長、エクステンションであるという事だ。そこには、多くの人達が思っている、「お金とは、こういうものだ」という様な性質は、全く、何もないし、あり得ない。

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