今、自分の生活の中に、現実にある問題を思う。
この問題は、解決する。
その、静かな確信が、今朝、今日、ある。そして、それを、間違いないものとして、感じている。
これは、純然たる、事実だ。
すでに、解決して、事が終わってしまった安心感が、内に、ある。
そこに、日常のリアルさがある。
あきらめない、という事。それは、望む結果の実現を、信じている….という事。本人に、その気があってもなくても、意識的であってもなくても、そうなのだ。そして、思う、という事は、持続・継続によって、力を持つ。
はじめは、「思っているだけ」。何の力もない。少なくとも、そう感じる。痛みを以って、そう、感じる。しかも、悪い事に、それが、当座、続く。だが、事あるごとに、その思いを、よみがえらせ、例え、感情が伴わなくても、いや、感情が、逆らいさえしても、とにかく、「思う」事をする。
すると、いつの間にか、その思いが、成長する。少しずつ、少しずつ、自分でも、気づかないまま。
ついには、問題を目の前にしていない時には、その解決を確信出来る様になる。けれども、まだ、問題のフィジカルな存在を目の前に見ている時には、やっぱり、ダメなのかな?と、思ってしまう。
だが、最後に、確信が、100パーセント、満ちる。もはや、三次元世界で、問題の存在を目前にしていても、問題が解決する確信は、揺るぐ事も、変わる事もない。
そして、ある日、ある時、問題の解決が、信念では、なくなる。信念ではなく、事実になったから。
信じていた、その解決が、目の前で、現実になっているのを見る。
心の「思い」が、ここに至り、現実になるまでの過程というのは、不思議で、説明出来ないけれど、説明出来なくても、事実、それが出来るという事は、多くの人が、感覚と、体験で、知っている。
僕自身も、その内の、ひとりだ。
今、僕が生きている全部が、心の思いの結果で出来ている。普段、忘れているけれども、事実だ。
考えて見れば、すごい事だ。
自分自身だけで終わる文章を書いているのか、それとも、ブログの記事を書いているのか、いいかげん、区別がつかなくなって来た。
( 笑。)
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