
祈り. そして、至高者.
言葉が、至高者に、届く。言葉を、至高者に届ける。それが、祈りだ。それは、特定宗教の色合いを持っていてもいいが、そんな色合いは、全然なくても、構わない。それは、本質からして、個人的なものであり、純粋に、個人と、至高者の間だけの事だから。
神、と呼ぼうが、何と呼ぼうが、とにかく、そういう至高者の存在を、個人の心で感じた時、言葉、というものの意味が、変わる。
それまでは、人間同士のコミュニケーションであり、あるいは、日記とか、ひとり言みたいな形で、ささやかに、自分自身と語り合うツールだった言葉が、今や、別の次元のチャンネルを獲得した。
今回の、この記事は、至高者、という、僕の言葉に反応して、何かしらの、個人的なリアリティーを感じる人の為の、特化ブログ記事であって、それ以外ではない。
で、至高者、という言葉に、何かしら、感ずるところがあり、腑に落ちる人に、対象を特化して、そういう人に向けて、話を続けるのだが、そこには、特別な形で、プラスなものがあり、ナチュラルに、ポジティヴなものがある。ホッとする様な。不思議な希望を感じ、力づけられ、励まされる様な。人間同士のしがらみ一切から、社会の窮屈なワク組みから、ひとときでも解放されて、ひと息つける様な。大変な中、八方塞がりに思える中でも、何とかなるんじゃないか…..と、思える様な。生きる上、生きている上での、あらゆる重荷から、今だけでも、心が自由になって、楽になり、再び、本来の、あるがままのの自分を感じ、忘れていた自分を、取り戻せる様な、そんなものが。
“神”“至高者”などというと、もう、それだけで、「宗教か、それとも、精神論か」みたいにも取られかねないが、言葉としては、それほどにはっきりしてはいなくても、その感覚というのは、誰にでもあるものであって、ただ、その感覚が意識されているか、無意識なままであるかが、違うだけだ。
その感覚が、意識としてあると、そこに、個人の、心の世界、みたいなものが、現れる。いわゆる、通常の世界、人々と共に住んでいる、日常生活の世界と重なっていて、だが、次元の異なる世界だ。「我々」の感受する世界ではなくて、「私」の感受する世界、「我々」の心に映る世界ではなくて、「私」個人の心に映る世界だ。そこで、人々の心、集団の心に埋没していた、私自身の心が、姿を現す。
その、個人的な世界観というものは、前述した、至高者の感覚、そして、言葉によって、至高者と心通じ合う、“祈り”の感覚と、深く関係し、一致している。
言葉になどならないし、する必要もない、個人の、純粋に個人的な心の世界を、あえて、言葉で表現すると、こんな感じになる。
「ココロのセイブン」と名乗るだけあって、心については、僕は、自身の専門分野とみなしているのだけれども、到底、語り切れないほどの、底無しに深いものがある。

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