ブログという、生き物.
2ヶ月前に、ブログを始めた。
文字通りの、知識ゼロから、始めて、2ヶ月間、続けて来た。
それは、自分自身と向き合う作業であり、向き合い続ける体験だった….と、今、その2ヶ月間を振り返って見て、つくづく、思う。
その作業、その体験の中で、それは、自ずから、成長していった。
例えば、日記や、個人的なノートの様に、自分自身だけを相手にして、ひとりで、文章を書き、書き続ける事にも、それと同じ、自らを成長させる効果がある事は、自分自身の経験から、知っている。
だが、ブログ・サイトで、自分自身の文章を書き続けるほどの、顕著な効果は、そこには、ない。これも、又、自身の経験からの、実感であり、今、僕が体験している事の実感、ズバリ、そのものだ。
その違いを、つくり出しているのは、ブログ記事というものに備わっている、大前提としての、公共性、あるいは、共有性だ。
ブログ記事が、個人のノートに書かれた文章と、決定的に違う点。それは、ブログ記事が、ウェブ上にあって、誰でも、それにアクセスできるという点であり、誰でも、読む事が出来るという点だ。
だから、常に、仮想読者の目を意識して、客観性のある、わかりやすい文章、理解され得る文章、意味の通る文章を心がけて、書く事になる。その、客観性を心がけて書いた文章は、当然、そんな事を心がけずに書いた文章よりも、客観的なものになり、より、筋の通った、納得され得る文章、より、説得力のある文章となる。
例え、その記事が、結果的に、誰にも読まれなかったとしても、客観性があり、現実的な重みのある文章を書いた事は、その文章を書いた、僕自身の心に、必ず、反映されて、プラスの影響を及ぼす。
さらには、そういう文章を書こうとする、日々の、継続的、日常的な心がけが、無意識の内にも、僕自身の、思考の習慣、思考の態度そのものとなり、物事を考える上での、基本的な心がまえとなる。
つまりは、何が、起こるのか?
つまりは、僕自身の思考が、洗練されて、力あるものになるのだ。
それこそが、自分のブログ・サイトで、自分自身の文章を書く事、書き続ける事の、最大の効果であり、成果だ。少なくとも、僕の場合は、その通りに、現れている。
これまでの思考内容、精神活動には、大いにあったであろう、単なる自己満足や、自分自身でも、何の事なのかよくわからない、不明瞭な思考が、なくなった….とは言わないまでも、大幅に、減った。
そして、その分だけ、僕の考える事、考える内容は、より、客観性のあるものになり、その成果を、現実の生活の中に現す、実際的なもの、力のあるものになった。
これからの僕を、これまでの僕とは、違う僕にするのが、この、新たに訓練された、思考の習慣だ。
そして、その、コアから新たにされた思考習慣が、これからの僕の生活を、これまでの生活とは、本質的に違う、新しいものにする。
それは、ひとえに、僕の思考習慣が、これまでとは、本質的に違う、新しいものになったからだ。
個人の生活として、現れている内容は、その個人の思考習慣の結果であり、反映である….。言葉としては、これまで、さんざん、耳にし、目にし、自分自身でも、納得し、実感して来た事だ。でも、それが、そのまま、僕自身のリアリティーとして、現れようとしている。その事に、抑え切れない、大きな感動、知的興奮を、覚える。
ストレスを感じているのも、確かだ。これまで安眠していた、僕の中の、保守的な部分は、今起こっている変化、さらに起ころうとしている変化を、全然、歓迎していないし、快く思ってもいない。それで、僕、という、ひとつの心、ひとりの人間の中で、僕の、革新的な部分と、同じく僕の、保守的な部分が、相容れず、衝突し、葛藤している。それが、ストレスとなって、多少、悪影響を及ぼしている。でも、それは、一過性のもので、じきに、解消され、なくなる事も、経験から、知っている。
ブログは、生き物だ。そう、はじめに、書いた。それは、僕が、生き物であり、ブログが、その、生き物である僕の、一部分だから。
僕が、ブログで、やって来ている事が、僕自身の、精神活動そのものなのだから、僕のブログは、もちろん、僕の心そのものなのだ。
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