社会の通念、一般観念から外れるというのは、かなり、恐い事だ。多くの人、ほとんどの人は、社会通念、一般観念の枠内で生きるしか、生きていく道がないと思っているから、そこから外れたら、究極的には、死をも免れないし、例え、死は免れたとしても、もはや、誰にも相手にされない様な、寂しい生を、余儀なくされるに違いないと、思っている。
そんな、多くの人、ほとんどの人には、この自分の事は、理解出来ないだろう。直接、あるいは、間接的に、この自分に接して、恐ろしくさえ、感じるかも知れない。
と、言うのは、客観的に見て、自分という人間は、多くの人、ほとんどの人ほどには、他の、圧倒的多数=社会の通念、共通観念から外れる事を、恐れていないから。
自分だって、社会通念から外れるのは、恐ろしい。けれども、自分の場合には、自身の意思とは関係なく、否応なしに、初めから、外れているし、それを、どうする事も出来ないまま、生きて来ているので、他の、多くの人とは違い、一般通念から外れて生きる体験をして来ていて、それが、現実に、どんなものなのかを、知っているし、外れたままで、何とか、ギリギリにでも、社会と折り合いをつけて、生きる術も、心得ている。他の人々ほどに、社会通念から外れる事を、恐れていないのは、そういう理由・事情があるからだ。
それと、もうひとつには、社会通念から外れる事には、マイナスな結果だけではなく、プラスな結果も、様々、ある事を、体験を通して、個人的に、知っているから。
そんな、自分でも、すでに、書いた様に、社会通念、一般観念から外れるのは、やはり、恐ろしい。
けれども、これも又、すでに、書いた様に、社会の通念から、外れないで、生きるなどという事は、自分には、したくても、出来ないから、必要に迫られて、ひとつの事を、常に、心がけている。それは、自分の歩む道、歩もうとしている道が、理にかなって、プラスな結果に導くものである事を、確認した上で、歩む、という事だ。
世の中の、凡人ではない人々は、確かに、そういう生き方をして、いい意味で、社会通念の枠組みから、外れた道を歩み、凡庸ではない、プラスな結果をつくり出しているので、自分も、倣っている。
ある選択が、社会の通念にかなっているから、故に、それが、ベストな道だ、という事実は、ない。
あらゆる、並外れた結果、成果、進化、発展、発明、発見などは、常に、社会通念を裏切って、起こるし、成されているではないか。
個人的には、こう、考える…….。
社会通念通りに生きる道とは、違う、ある道が、あって、その道を選び、歩く事が、理にかなっていて、間違いなく、人々が(精神的に)歩いている、一般観念の道を歩く以上の、プラスな結果、プラスな体験を、自分にもたらしてくれる….と、個人的に、確信出来るなら、自分は、その道を、歩む。
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