生のすべて、個人生のすべては、それを生きる主体者としての、自分自身にかかっている。環境的なものは、それに対して、副次的な意味/二次的な意味、附属的な意味、あるいは、この瞬間まで生きて来た、その結果としての意味しか、持たない。個人生の環境は、生を生きる主体者としての、自分自身の動向次第で、そのすべて、全部が、あっと言う間に、変わってしまう事だって、可能なのだ。
生きたい生は、こうなのだ、こういうものなのだ、という事が、感覚として、あるいは、気持ちとしてだけでも、はっきりとしていれば、生の環境のすべてが、自動的に、その、自分の感覚、自分の気持ちに、従う。それは、当たり前だ。個人の生環境そのものには、その個人に対して、どんな意志がある訳でも、ないのだから。不満足な、個人の生環境の、不満足な要素のすべてが、何かの、意志を持った生き物(の集合)であるかの如くに、その個人に対して、よってたかって、お前の生を、不満足なものにしてやる!などと、やっている訳では、全然、ないのだ。
自分の、個人的な生環境が、自分を、不満足な状態に置いている….と、感じている、個人。その、ひとりひとりは、その、当たり前の事実が、本当には、わかっていなくて、人知れない、個人のイマジネーションの中で、自身の生環境を、擬人化して、自分が、その犠牲者であると、感じているのだ。
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