僕の論を、真っ先に、結論から言ってしまうと、ひとりで信じなさい……という事だ。それが、一番、確実だし、本質的だから。
イヤ、ひとりで信じなさい、というよりも、ひとりで考え、理解しなさい、と言った方がいいか。
例えば、「神」。これは、“例えば”というだけの話なので、「仏」でも、「全宇宙の包括的精神」でも、要するに、何でもいいのだが、「神」であれば、一貫して、「私の神」という、心の態度でいる事。
これが、「私達の神」という、集団的な性質のものになると、世間一般でいうところの「宗教」「宗派」になり、「宗教?ウヘエ、そんなもの、オイラ、まっぴらゴメンだよ!不気味だし、オッカネエ!」という事にも、なりかねない。
僕からすれば、集団で神を信じる…..などという事は、言葉の厳密な意味では、あり得ない。ひとりの人間が、ひとりの心で、神を信じているのなら、信じているのだし、ひとりの心で、信じていないのなら、それは、信じていないのだ。個人的な心で、信じていない人間が、集団の中でだけ、信じている気持ちになっているのであれば、それは、ただの、集団心理であり、集団催眠だ。ひとりでは信じていない人間が、どうやって、集団でなら、信じる事が出来るのか。考えて見ればいい。
複数の人間達が、その集団の中だけで通じる「何やら」でひとつになって、客観的な目からすれば、現実の世界から精神的に離脱して、集団で夢を見ている、夢遊病者達の集まりの様に見える…..それが、「宗教?ウヘエ!不気味!ゴメンだ!」と言われる宗教だ。
そのポイントは、集団心理的な性質のものであるという事と、現実的な思考のコントロールがない状態にあるという事の、ふたつだ。
僕は、14歳、15歳の時、家族の都合で、イギリスに住んでいた。
イギリスと、アイルランドの国境にあたる、ベルファストという町で、その、ベルファストの領地権をめぐって、当時、イギリス側と、アイルランド側で、紛争が絶えなかった。だが、子供心にも、不可解で仕方がなかったのは、そこに、(イギリスの主流宗教=)キリスト教・プロテスタント派と、(アイルランドの主流宗教=)キリスト教・カトリック派の対立、という色合いが、明らかに、あった事だ。どちらも、同じキリスト教同士で、当然、その土台となっているのは、同じバイブル(聖書)であるはずの両者が、事もあろうに、領地争いで、殺し合う?一体、それは、どういう事なのか??????いくら考えても、わからなかった。考えれば、考えるほど、ますます、混乱した。
わからないまま、ひとしきり、イギリスで生活を続け、やがて、帰国する時が来て、日本に戻った。
何年も経って、バイブルを、ひとりで、読み始めた。純粋に、一冊の本として。それが、キリスト教の聖典である事は、もちろん、知っていたが、キリスト教の聖典として、読む、という頭は、全然、なかった。そうやって、単なる一冊の本として、ただひとり、部屋で、バイブルを読んでいると、なかなか、いい本だった。
だが、特筆すべきは、キリスト教で、全く、教えていない様なメッセージが、そこに、いくらでも、見出せた….という事だ。個人の心で、直接に読んだからこそ、それに応えて、本が、個人的に教えてくれた….という様な感じだった。
その後、キリスト教以外の聖典も含めた、様々な本を、やはり、「個人の心で」「じかに」読んで見て、常に、同様の体験をした。
「この本には、こういう事が書いてある」という、誰かの言葉だけを聞いて、アア、そうか、わかった….と、それだけで、済ます事も、もちろん、出来る。それで、悪い、という事も、何も、ない。
でも、伝統的な宗教の聖典も含めて、優れた本というものは、常に、その内容を、様々に解釈する余地を持っている。読書を通して、ひとりの人には、この様に語りかけ、別の個人には、別の形で語りかけ、そうやって、ひとりひとりの読者に、その個人個人が求めているメッセージを、その時その時、与える事が出来る….それが、優れた本だと、僕は、思う。
それに加えて、こんな事も、思う。又、バイブルを例えにして見ると、それを聖典にしている、無数の、大小の宗教の、信者なり、伝道者なりに、「ハイ、バイブルには、これこれ、こういう事が書いてあるんですよ。素晴らしいですよね。さア、あなたも信じましょう!」と言われたとする。
でも、それで、バイブルがわかるのであれば、もう、バイブルを読む必要は、なくなってしまうではないか。そうではなくて、その、特定宗教なり、伝道者なりの言う事は、ひとつの解釈として参考にするにとどめ、やはり、自分自身で、その本を読み、自分自身で、そのメッセージを、読み取る。それが、僕の提唱する、本の読み方だ。音楽も、そうなのだけれども、「この曲は、生きる事の喜びを表現しているんですヨ」と言われて、それで終わる事が出来るのならば、音楽なんか、そもそも、必要なくて、ただ、紙の上にでも、「生きる事の喜び」と書いて、それを読んでだけいれば、いいのだ。そういう、一解釈だけで終わらない、あるいは、言葉にさえならない、様々なものを、自身の心の内に、見出す助けになるからこそ、本も、音楽も、必要だし、大事なのではないかと、僕は思う。
好き嫌いで言うなら、僕は、宗教が好きで、深く、興味があるし、キリスト教の原典/ユダヤ教の原典(これらは重複している)、仏教の原典、ヒンドゥー教の原典を、愛読して来ている。その、どれをも認めているし、どれも楽しく、どれも実際的で、どれも役に立つ。そして、そのすべてが、個人レベルの事なので、宗教なんて….と怪しんでいる、一般社会との間の葛藤などは、経験していない。
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