ゲオルギー・イヴァノビッチ・グルジェフ。この人物について、客観的な目で、しかも、思い入れを込めて、一番、わかりやすく書いている著書は、彼の生徒だった、ピョートル・デミアノビッチ・ウスペンスキーによる、「知られざる教えの断片(原題の日本語訳)」だ。僕は、この本を読んで、この、グルジェフという人物が、本の中から、それを読んでいる僕の事を、じっと見つめている…..という、世にも不思議な印象を受けた。これは、ひとつには、この本の著者である、ウスペンスキーの書き方が、特に、人物描写が、優れているからなのかも知れない。
本の、文章中の人物が、本の中から、静かに、じっと、僕を見つめている。その、眼差しに、僕は、何とも、暖かいものを、感じた。
本を読んで、そんな、奇妙にして、リアルな印象を抱いたのは、今のところ、それっきりで、それが、最初で、最後になっている。
だから、どうで、こうで…というつもりは、ない。それは、それ…と、この様にだけ、思っている。
この、グルジェフの、講義というのが、とびきり、面白かった。
そもそも、この、「知られざる教えの断片」という本は、その大半が、著者のウスペンスキーによる、グルジェフの講義をノートに取った内容の写しで出来ている。
しかも、これ又、面白い事に、ウスペンスキーには、これを出版するつもりが、全くなかった様で、それが出版されたのは、ウスペンスキーが死んだ後、彼の奥さんが、ウスペンスキーの遺稿を、出版社に持っていった結果だった。
つまり、この本の内容には、人に読ませる為に、意図的につくった部分が、まるでないという事だ。
ウスペンスキーが、あくまでも、自身の心に忠実に、自分自身の為だけに書いたものだという事だ。
この本を読むに先がけて、僕は、グルジェフについて書かれた、もっと次元が低く、内容的な深みもない、別の本を、数年前に、読んでいた。コリン・ウィルソンという、まあ、僕にとっては、どうでもいい著者による本だった。
けれども、そんな、深みのない本でも、グルジェフの、いくつかの言葉を、そのまま紹介していたのは、のちに、グルジェフを知った時の、自己理解の助けになった。
結果から言うと、僕は、その本に紹介されていた、グルジェフの言葉を読んで、いっぺんに、この、グルジェフという人物が、大嫌いになった。それは、人間についての、絶望的な事実を、余りにも、あからさまに、表現していたからだった。いわく、「人間は機械だ」と。そして、「すべては、ただ起こる。人間は、それに対して、何もできない」「人間には、意志などはない。あると思っているだけだ」と。不愉快極まりなかった。
のちになって、先述の、ウスペンスキーによる著書を読んで、その、「大嫌いだった」グルジェフに感銘を受けてから、まさしく、その、同著書の中に、こんな言葉を、見つけた。それは、僕が、グルジェフの事が大嫌いになった理由を、もはや、逃れようもない位に、ズバリと、言い現していた。
「お前には、意志などないし、現に、何もできないじゃないか、と言うのは、人々にとって、これ以上にない、侮辱だ。それが、ことさらに、侮辱であり、人々を不快にさせるのは、それが、真実だからであり、そして、人々は、真実を知りたいなどとは、これっぽっちも、思っていないのだ」。
突然に、人々の目の前に現れた、グルジェフの、突然に紹介された、余りにも、独自・独特な教えは、一体、どこに源流があるのか、いまだに、わかっていない。
「自分は、グルジェフが教えを受けた、その秘境の寺院に行って、教えを受けて来た」とのたまわる、クラウディオ・ナランホという男がいるが、グルジェフが生きていて、それを聞いていたら、さぞかし、大笑いしているだろう。
この、グルジェフは、確かに、自身の教えを伝える為に、生徒を求めていたのだが、その一方では、何でもいいから、いい印象を与えて、生徒の数を増やそう….などとは、全然、思っていなくて、現に、興味半分でやって来た人間や、救い難いカン違いをしている様な人を、体よく厄介払いする為に、様々な工夫を凝らし、常に、人々が本気かどうかを試し、生徒となる者を、選んでいたという。
僕が、ミュージシャン以外で、最も影響を受けた人物を、ひとり挙げるとすれば、彼が、その人だ。
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